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発音について(めちゃ長文)

彼が今後ろう学校の先生になりたい、ということで、
今まで彼と一緒に色々なろう学校を見てきた。

そこで思ったのは、やはり色んなろう学校でいろんな考え方が
あるんだな、ということ。
当然っちゃぁ当然なんだけど、中には「え?」と思うような
ところもありまして。

現在、ろう学校では昔みたいな「発音至上主義」といったものは
なくなってきていて「手話教育の推進」が図られている、とは
聞いてたんだけど、やっぱりまだまだなんだな・・と思ったことも。

というのは私、発音に関しては非常に敏感でして。
私は重度聴覚障害で、完全に聾というわけではないけれど、
発音がどうしてもうまくなることはなかった。
それでもろう学校のすすめで地域の小学校に入ったんですな。
けど、それが苦難の始まりだったんすよ。

難聴学級がある小学校だったから、だいたい1学年あたり3~4人の
難聴の子どもがいた。
それは良いことでもあるけれど、悪いことでもあった。
なぜなら、比較対象にされたから。

そのころ、先生も「発音がすべて」「発音がうまくないとだめ」と
子どもたちに言っていたし、子どもたちにも「もし聴覚障害の
子どもの言っていることが分からなかったら、分かるまで何回も
聞き返しなさい」と言っていた。
それが当時の教育だった。
筆談をする、なんていうものは当時では考えられないことだった。
筆談よりも、がんばってしゃべって通じるのが一番、というのが
当時の風潮だった。

もちろん私も、筆談なんてものは思いつかなかったし、
とにかく頑張ってお話するしかないと思っていた。

でも、通じない。
他の子どもたちと話したくても、話せない。

それと同時に、私は孤立していった。
誰とも会話できない辛さがあった。

でも、他の発音がうまい子どもは、友達をたくさん作っていった。
当時、同じ学年で聾の女の子は私ともう一人しかいなかったために、
それが比較対象となった。
あの子は発音がうまいのに、私は発音ができない、という差を
はっきり見せつけられた。

難聴学級でも、1週間に1回発音の練習をする時間があった。
発音の練習をするとき、難聴学級の1年~6年が一緒になって
発音がうまい子、まぁまぁの子、下手な子にグループに分かれて
練習をした。
その時、先生も発音がうまい子には拍手をたくさんして、
下手な子には「何言ってるのか分からない」と言ったりしていた。

授業中も同じだった。
国語の時間なんかは、教科書を音読する時間がある。
その時、発音がうまい子は褒められたりしていたが、下手な子は
「うまく言えるまで何回もやり直し」と言われてずっと立たされていた。

そういうことをずっとやらされてくると、どうしても劣等感が
うまれる。
自分は下手なんだ、という思いが、だんだん「自分はだめな人間なんだ」という気持ちに変わっていく。
そのあげく、私は人としゃべることが嫌いになった。
小学校4年生ぐらいから閉じこもるようになり、クラスでも孤立し、
誰とも話さなくなった。

その当時は、「発音が下手なんだから仕方ない」と思っていたけれど、
今考えると差別だと思う。
そうやって発音がうまいか下手かで優劣をつけること自体が本当に
おかしいことだと思った。

これが聾教育、というものなのだろうか。


そして私は今、思う。

もしあの時、筆談という方法を教えてもらえていたら・・・?

また世界は違っていたかもしれない。

事実、私が筆談という方法を知ったのは、大学1年の時だった。
筆談という方法を知り、そして手話を知り、私の世界は広がった。
それと同時に、残念に思う。
もっと早く知っていれば、と思うのである。


ここで私が言いたいのは、発音がうまいか下手かがすべてではないということ。
それよりも、発音が下手な子のケアが必要である。
そのケアというのは、発音がうまくなるように訓練をするということではなく、
筆談や手話、身振り手振りがあること、を教えてやることである。
うまい子にはそれなりの方法を、そして下手な子には、下手である
ことを十分自分で理解した上で、代わりの方法を見つけてそれを
活用できるようにさせることである。

しかし、私は難聴学級があるとはいえ、あくまでも地域の小学校で
あったから、そういうことになってしまったのでは?と思う人も
いるかもしれない。
ろう学校だったら、そんなことはないのではないか?というのは、
昔私もよく思っていた。

しかし、色々なろう学校を見て思ったことは、ろう学校の中でも
まだ発音による差別があるのではないか、と疑わしく思った学校が
あったということ。
たとえば、色々なろう学校の文化祭を見たのだが、あるろう学校では
マイクをたくさん置いて、発音がうまい子にしゃべらせて劇をしていた。
もちろん発音がうまい子だけ、ナレーターとか主人公とか大きな役を
やっているところもあった。
教師と子どもたちとの関わりを見ても、やはり発音がうまい子には
拍手を送り、下手な子には注意したりしていた。
そういうのを見ていると、やっぱりまだまだなんだな、と感じた。
実際にその舞台に立っている、発音が下手な子どもはどういう
気持ちでいるんだろうか?と胸が痛くなった。

逆に、これは良いな、と思う学校もあった。
そこでは、手話のみの劇をやっていて、教師が音声通訳をしていた。
そこでは子どもたちが元気いっぱいで、手話だけで本当に生き生きと
劇をしていた。

どちらが良いのか悪いのかは、私にははっきりとは言えない。
どちらにも長短はあるだろう。
もちろん、発音をする、ということも、例えば人体機能(肺活量や
のどを鍛えるとか)を鍛えるという意味では良いこと、とされている。

しかし、どんな時も、発音がうまい下手で子どもに優劣をつけることが
あってはならない。
子どもたちの才能は発音で決めることではない。
発音が下手な子には、下手なりに今後の社会でどうやって生きていくか
といった、アイデンティティを教えられるような教育をすべきである。

私が言っていることは古いかもしれない。
もうすでに、色々なろう学校では理解されていることかもしれない。

が、全てのろう学校が理解されるようになるまでは、言っていきたいと
思うのである。
すべての聾の子どもたちが幸せである教育を、そして、全ての聾の
子どもたちが自然でいられる教育を、と私は望む。


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一息ついて。。。
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コメント

こんばんみ!

ほんと、どちらが良いって問題ではないよね。自分が教員免許を持ったことや、学生の頃から何度か聾者との交流があったこと、聾学校に勤めていた父の影響などなど、こういう話題には反応してしまいます。確かにここ何年かで聾教育は変化していってるよね。ガラリと。浸透してるかどうかは別として。

当たり前の事なんだけど・・・昔からすごく感じてるのは、健常者も聾者も「伝えようとする事と、聞き入れようとする事」をあきらめちゃだめだって事。知りたかったら、分からなかったら何度でも聞いて欲しいし、知りたいから何度でも聞きたい、というか。

正直私は、何度も聞いたら気分悪くするかなーとか、何度も質問させるの悪いかなーとかそんな低レベルな考えでウロウロしています。でも本当は、何度も聞く勇気を持ちたいし、何度も問いかけて欲しい!

発音って、上手いとか下手でどうにかするものじゃないよねぇ・・!こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、例えば手の無い人に「手で持て」と言うようなものじゃないのかしら。「手で持てないなら、足で持つ」とか、そういう意味でできる事を教えることが学校教育なんじゃないのかーー。
うおーーヽ(`□´)ノ




2007/12/05 (Wed) 23:19 | ちょち #w50H46U6 | URL | 編集
あたしも長いよ。(笑)

> 私は重度聴覚障害で、完全に聾というわけではないけれど、

っての見て思ったんやけど、ねこの思う聾って、どこからどこまで?(笑)
あたしは自分の事、聾って自覚してるんやけど。。。
人によっては、自分を難聴だと主張してる人もいてるんだよなぁ。
どうゆう基準なんやろ?って、いつも気になってるねんけど。
ねこの基準、聞かせて☆

地元でも、聾教育について話し合う機会がいっぱいあって、その度に考えさせられるなぁ。
あたしのまだ見ぬ我が子は、聾なのか健常者なのか分からんけども、信ちゃんとはいつも「我が家では、手話だけでコミュニケーション取ろうな!!」と。

ねこの気持ち、すっげぇーーー分かるわ。
あたしも発音、むちゃくちゃむちゃくちゃヘタやから、劣等感感じて、ついには声出す事に抵抗感じるようになって、今ではすっかり自分の家族にしか声出さへんようになったなぁ。(苦笑)
家族以外の健常者と接する時は、手話か筆談か、どっちかになってる。
実家を出てからは、声出す機会、むっちゃないなぁ、そういや♪

けど、あたし、筆談にもちょっと抵抗あるのね。
あたしやねこみたいに普通に文章が健常者並に書ける人やったらいいんやけど、中にはそうでない聾(聴覚障害者)もいてるのね。
日本手話を母語としてる人やったら、なおさら…。
そやし、やっぱ手話をもっと広めるべき、なのね。
なんてったって、手話は言語なのであるんだから!!(キッパリ)
後数年かすれば、それが法律で認められるよ♪
楽しみやなぁー、その日が!!!!!

日本手話を身に付け、信ちゃんとも日本手話でコミュニケーションを取り、日本手話の素晴らしさを知ったあたしが思うのは、発音も大事かもしれんけども、やっぱ手話が一番って思うなぁ。
もし、生まれて来る子供が聾やったら、発音の勉強はあんまりさせないつもりなんやけど。。。
させた方がいい!!!!!!とゆう人も出て来るのかもしれんねぇ…。
う~ん、難しい問題だよね、発音については。
あたしと信ちゃんは、正しい発音なんて教えられる訳でもないし。

ねこのゆう通り、自然でいられる教育がいいよね、うん。
発音を無理強いする事もなく、手話を無理強いする事もなく、とにかく子供が自分に合う方法を身に付け、楽しくのびのびと育ったらそれでいいよね♪

2007/12/06 (Thu) 14:55 | 女神(ピンク) #L1ch7n1I | URL | 編集

難しいところだね~。ただ、ねここがそうだったようにその子供が悲しい思いをしているなら、それは正しくないんだろうと思う。
ただ、何が正解かってそれが難しいんだよね。
発音の練習も、やり方によっては絶対必要だろうと思うし。
ただ、それが全てであるかのような教育は、正しくはないんだろうと思う。

2007/12/07 (Fri) 00:42 | DISKY #/.OuxNPQ | URL | 編集
まとまらないけど・・・

子どもをしかったりしてやる気を出させるのは、中学高校の部活くらいで、小学校では、絶対無理だと思う。ほめてやる気を出すのが、一番近道で正しいと思う。

最良の指導方法としては、
やれば上手になるていう、うれしくなる目標を常に持たせて、そこまでに小さな通過点となる目標をもうけ、少しずつクリアさせるのが、いいと思う。
(ちょっと「させる」って命令ぽくてごめんね)

ただ、身体的な問題があって、個人のできる範囲って決まってくる。かけっこをやっても遅い子は遅いし。でも遅いなりに本人のがんばりは認めてあげて、他に得意分野を伸ばそうとしていれば、それでいいと思う。
全員が達成すべき到達点を設定するのは、大人の勝手だもん。
いろいろなものにふれるため、体験としては大事だけど、どれに興味を持ち、どれを伸ばすかは、子ども次第。

で、その上で、
話すことというのは、生きるうえで大切なコミュニケーションをとる重要な手段ではある。かけっこや勉強とは違うってとこで先生達も必死になっていたのかも知れないね。
が、コミュニケーションの手段は話すことだけではない。

他にもすばらしい手段があるので、その辺は先生達のほうが勉強して、生徒を盛り上げる立場であってほしいね。


私は一度、喫茶店で聴覚障害者の方たちとお茶したことがある。その時、手話のできる聴者の人がいて、私一人手話ができなかった。
とても孤立感を覚えた。何度も、聴者の方に通訳をしてもらったけど、話が弾んでくると、私はだんだん耳を閉ざしだした。私にとっては衝撃だったけど、小さい頃からこういう状態に慣れてしまうのはとても悲しいことだと思う。

普通の学校で学んだことでつらいこともあったかもしれないけど、可能性や視野が広がったいい経験だったと思えるねこちゃんが、ステキです。まっすぐ受け止められて、よかった。
私が、昔、もし悲しい思いをさせてたらごめんね。


ダーリンと一緒に、この後の教育をどんどん良くしていって下さい!!


2007/12/07 (Fri) 09:08 | みかぶ #- | URL | 編集
おっ!

子どものコミュニケーションっていうのは、大人たちが与えるんじゃない。子どもたちが身につけるもの。ってうちは思ってる。

現に、うちは親から色々なコミュニケーション方法を学んで育ってきたのね。
地域の学校との交流があった時に、嫌だなぁって親に言ったら、親にこう言われてるねん。どんな方法でもいいから、自分の言葉を相手に伝えることが大事だよって。どんな方法があるのかなぁって聞いたときに親はこう言った。
それは、あんたにしかわからんことや。お母さんとお父さんは、どんな方法があるか、っていうのは教えたるけど、それをどのように使うかっていうのはあんたが決めること、って。
書く、とか身振り手振りとか、周りにキュードを教えていくとか色々あるやろって。

大人は色々な方法がある、っていうことを子どもに伝えることが役割なんだと思うのね。
子どもは自分に合った方法を選択する力を持っていると思うねんな。

失敗したら、そこから学べばいい。そこから学んで、大きくなっていくもんやとうちは思ってる。

今日は久し振りのコメントでした^^

2007/12/07 (Fri) 23:58 | ゆきどん #- | URL | 編集
レスレス

>ちょち

コメントありがとう~~。
そうだよね!発音に限らず、発音にこだわらず、
どうやって伝えるか?が大事なんだよね。
そこを見失ってしまってもダメなんだよね。

いやいや、何度も聞いてきてもいいんよww
こっちだって分からなかったら何度も聞くしw
お互いに聞かないまま分かったふりっていうのも
あかんしなぁ。そこから段々人間関係がズレて
いってしまうし気をつけないとねー。


>PINK

あなたも長いっすねww
張り合ってる?ww

なるほど、筆談にも人によってはできない人も
いるもんなぁ~。
じゃあ筆談できない人に対してはどうすればいいのか?っていうと、
今の教育では難しいよなぁ。
やっぱり手話がもっと広まって共通言語になって
くれたらそれが一番なんだよねぇ。
一番いいのは、子どもが自分で選択して納得して
教育を受ける、ということなんだけど、それでも
小さいうちは難しいから親がある程度決めてしまうしか
ないんだよね。だからこそ、親は悩むよね。
でもピンク&シンが信じる方法でやれば、子どもも
納得して受けられるかもね。


>DISKY

そうやなぁ。教育によって子どもがつらい思いをしたり、
他のところで弊害が起きたりするようなことはいけないと思うな。
勉強がつらいとか、分からなくてついていけない、とかいった意味での「辛い思い」とはまた別だけど。
その子どもが生き生きと出来るような教育が一番なんだけど、
それも先生や親のエゴとかが出てくると難しくなってくる。
そこを気をつけて、何が子どもにとって一番良いのかをみんなで考えていけたらいいなぁ。


>みかぶぅ

なるほどね~。
子どもを叱ったりしてやる気を出させたりするのは
高校とか中学までで、小学生のうちはまだ早いんだね。
まだ小学生のうちは、身近な目標を立てて、それに
近づけるように褒めて盛り上げてやる気を出させるのが一番なんやな。それは知らなかったなぁ。
うんうん!!
全員が到達できる目標をどこにするかっていうのは確かに大人の勝手だよね。
確かに大人にしたら、ある程度ここまでは出来るようになってほしい、というのはやっぱりあると思うけど、
それ以上に、その子どもがどこをどこまでできるのか、っていうのは、子どもの能力次第だからねぇ。
そこを見極めて、子どもに合った教育をするっていうのが大事なんよね。
これが意外と難しいのかもしれんなぁ。
大人にしたら、「この子はここまでできるはずなんだ」「この子にはこれが出来るようになってほしい」とかいった想いもあるだろうし。
ほう、聴覚障害の人たちとお茶したことあるんだ。
それはいい経験だったのかもね。
聞こえる人が逆に聾者の中に入って分かることもたくさんあるから。
そういった経験を、他の人々にもしてもらえたら何かが変わるんじゃないかなぁ~と思うよ。


>ゆきどん

おっ久しぶりのコメントやなぁ~。
しかし、ゆきどんの両親は良いことを言うねぇw

>それは、あんたにしかわからんことや。お母さんとお父さんは、どんな方法があるか、っていうのは
>教えたるけど、それをどのように使うかっていうのはあんたが決めること、って。
>書く、とか身振り手振りとか、周りにキュードを教えていくとか色々あるやろって。

なるほどね。
こういうことを親とかが子どもに教えていけるようになることも大事やなぁ。
子どもに全部教えてしまうのも良いかもしれないけど、
子どもに様々な方法があるといったことを教えた上で、どんな方法でやるかは子どもに考えさせるのも良いと思うな。
人生の経験上、さまざまな方法をたくさん知っているのはやっぱり大人なんだから、大人は子どもに
さまざまな方法があることを教えて、その上で子どもに選択させることができることも、教育の上では大事なことやな~。


2007/12/13 (Thu) 21:44 | ねここ #- | URL | 編集

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